大日本人

eigadojo2007-06-02

こんな映画を観た。


松本人志の第1回監督作品です。
事前情報をほとんど公開せず、いきなりカンヌでお披露目という派手なデビューを飾った松本監督の手腕やいかに・・・・・・?


松本人志が公開前から言っていた「映画を壊す」という目的は、ある意味大成功し、ある意味大失敗しております。


もし、オフィシャル本に書いてある初稿のまま完成させていたら、かなりの傑作になっていたと思うのですが、あえてそれを放棄して、「映画であることを止める」という飛び道具を出して来た・・・・・という感じのエンディングを迎えます・・・・・。
このラスト10分の展開が、見ようによっては、「映画を壊す」どころか「陳腐な寒いパロディ」にも見えてしまうのが、どうにもツライ。ツライ!ツライぞぉぉぉぉ!
それほど「映画」というものは、なかなか壊れない強固なものなのだなぁ・・・・という思いを強くしました。
「監督、ばんざい」も同じようなアプローチをして、失敗しております。


ここ10年の映像表現で「映画を壊す」ことに僅かながら成功したのは、「メメント」、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」、「新世紀エヴァンゲリオン最終回」の3つだと師範代は思うのですが、この3つの作品以上には、松本監督も北野監督も映画を壊していない・・・・・・そこがツライ!


北野武監督がデビューに恵まれていたと思うのは、深作欣二野沢尚が作った「その男凶暴につき」というオリジナル脚本が前提としてあったこと。
作監督の降板を受けて、あとを引き受けた北野監督は、深作・野沢版を「壊す」ことで自分のオリジナリティを表現できたという「幸運」です。(後に野沢は、『過去に2度、自分の脚本を改悪された。結果的にうち1本は傑作となった』と粋なことを言っておりました。)
松本監督が不運だったのは、オリジナルの「ヒーローもの」を自ら作った上で、壊すことまで自分でやらなければならなかったということ。
「そんな面倒なことしなきゃいいじゃん。」と人は言うかもしれませんが、そこが「天才・松本」の「天才」たるところでしょう。


松本がスタッフをいつものテレビのクルーで組んだのも敗因のひとつだと思う。
「それって全然新しくないよ!」って言ってくれる外部の存在を入れて脚本を練れば、こんな自家中毒なことになならなかったようにも思う。
「あんなゲームみたいなCGじゃ全然ダメだよ。いまどきの観客はもっと目が肥えてるよ!」とか言ってくれる人がスタッフにいなかったんだと思う。
師範代がスタッフだったら、CGまったくなしで『獣』を描くべきだ進言しただろう。


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